英語に悩みを持つと、英会話に走りがちですね。英語アレルギー治療記でも書いたように、筆者(ヤスヤス)もそうでした。でも、たいへん信じにくいことですが、それは「間違い」です。
中学・高校とそれなりに勉強してきたのに、英語圏の人とまともな会話もできないことに気付くと、多くの人が「ちょっと待てよ……」と立ち止まります。「英語で本が読めないことは、まあ仕方ないとしても(英語は難しいから)、英会話くらい少しは出来るようになっていなくちゃ、おかしいんじゃないか?」
その疑問に駆られるようにして、飛び込むのは英会話学校です。お金がかかるのも仕方がない。本当に英語ができるようになれば、安いものだ、と。
その気持ちは分かります。英語学習に対して「なんか違う!」って思っているとき、目に入ってくるのは英会話教室の宣伝です。楽しげですし、実際に外国人と話しているようですし、お金もたっぷりと掛けられて、「ぼくって頑張ってる」という気分にさせてくれそうです。
ここんところは大事なので、もう一度。「お金を払うことで、頑張ってるって気分にさせてくれる」。
消費者というのは「1円でも損をしたくない」存在であるとともに、「お金を払いたい」存在でもあるのです。この辺のキビが分かるようになると、そろそろです。
これだけ英会話産業が発達していると言うことは、それだけ需要があるということです。もちろん、その需要とは「英語・英会話ができるようにしてもらうこと」だと思いますよね。ところが違うんです。もし需要がそれだとしたら、供給側も実際に英語ができるようなプログラムを売りにするはずです。
ところが英会話産業が何を売りにしているかというと「先生は外国人(写真に出ているのは必ず白人系です)で、教室は楽しげな雰囲気」というパターンです。「日本語も出来る日系ネイティブの先生が(→理想です)、めちゃくちゃ勉強させる、厳しい雰囲気」なんて売りを見たことありません。
どういう事なのでしょう? 供給側(=英会話産業)がおかしいということはありません。供給側というのは、つねに需要を満たそうとする存在です。おかしいところがあるとしたら、それは私たちの需要、ニーズの方です。
私たちが英会話産業に求めているニーズとは、「英語を扱う能力」という直接的なものではなく、実は「アンチ日本の英語教育的に、頑張ってるって気分にさせてくれる」という間接的なものであったりするのです。
だからこそ、英会話学校の先生はいかにもアメリカ人であって欲しいのです。「英会話が本当に身に付くか」ではなく、「正しい勉強をしている気分にさせてくれるか」が大事なのです。
それが消費者のニーズなら、産業側もそれに合わせざるを得なくなります。本気で英語をモノにしてもらおうと、英会話学校の先生がたっぷり宿題でも出そうものなら、きっと生徒たちには評判が悪いでしょう。「雰囲気を楽しむために来ているのに、なに宿題なんか出してるの?」って。「これじゃあ、まるで教育だ」って。
英会話産業側が間違っているのではありません。間違っているのは、私たちの方なのです。大嫌いだった英語の授業に対するトラウマを英会話産業に癒してもらおうとする私たちの方が。
「癒してもらおう」という受動的な態度を取っている限り、能力など身に付くはずもありません。結局、英会話学校の「お客さん」になっているのです。「生徒」にならなくては。
脳みそというものは「これは必要だ。絶対ものにしたい!」とハングリーな状態になって初めてカチッとスイッチが入るのです。同じ授業を受けていても、「お客さん」と「生徒」では、結果は変わってきます。
つまり、英会話学校に通うだけで英語を扱う能力が身に付くだろうというのは、幻想なのです。誰かから何かをやってもらうだけで、空回りから脱することなど出来ません。結局、変わるべきは自分なのです。
つまり「こういう風にやるんだ」という信念が、まずは必要なのです。そういう信念を持っていなければ、何が自分に必要なのか、または合っているのか、なんて分からないはずです。ゴールも設定できないので、次から次へと教材を渡り歩く「英語難民」となってしまいます。産業側からしますと、いいカモです。
「英会話産業=英語みち」なのではありません。それは、広告などによって思い込まされている誤解です。英語みちは、あくまでも「英語世界を作ること」だと定めましょう。その方法/道具として、英会話産業を「利用」するのです。目的と方法をごっちゃにしないように。
SEO | [PR] !uO z[y[WJ Cu | ||